団体派遣で辺野古現地に行ってきた仲間たちからの感想文集です!(2016年2月)

皆様から辺野古リレーにいただいたカンパによって、2016年2月下旬に辺野古現地へ総勢20名の団体派遣をおこなうことができました。この場を借りましてお礼申し上げます。

この度の団体派遣で現地に行った、DA(直接行動)反原発ジグザグ会の仲間たちからの報告を「すわりこみ日記」(2016年2月)に一挙掲載しました。ゼヒご一読ください!!

また、ここでは団体派遣から帰ってきた仲間たちの感想文を集めまてみました。以下にご紹介します!!

 DA(直接行動)より

◎感想文(S)

先日、辺野古の工事がほぼ止まった。短いながらも大いに刺激的で充実した日々を辺野古で過ごしたわたしたちは、それが激烈なゲート前での抗議行動によって勝ち取られたものであるということを疑わない。

辺野古では、今この瞬間もゲート前に座り込み工事車両を止めるという、身体を張った愚直なまでにシンプルに見える抗議が行われている。しかし、それは見かけの単純さとは裏腹に、あらゆる知恵と戦術、沖縄の長きに渡って蓄積された怒りによって支えられた複雑かつ堅固な抗議だ。

その逞しさを一言で表した言葉が「しなやかに、したたかに」というスローガンだ。わたしたちは沖縄の闘争を本土に持ち帰ると言った。今それを再度口にするならば、沖縄のしなやかさとしたたかさを本土に持ち帰ると言い換えるだろう。

「直接行動」というものは、歴史や時事刻々変化する現実から目を背け、素朴な個人主義を拠り所に打って出るものではない。今まさに立つこの場所の歴史と現実の微細なニュアンスを踏みしめ噛み締めた上で行われるものなのだ。沖縄の歴史を学び、日々の地道な対話がもたらす成果に触れた今、明らかにわたしたちは強くなった。そう、わたしたちは辺野古での経験によって強くなったのだ。

◎感想文(Y)

一週間の沖縄辺野古への派遣は私の主体性への認識を転換させるものとなりました。これまで社会的な問題に関心を持ちながら沖縄の基地問題の背後にあるものに意識はしつつも、私の主張して来た「反戦」はせいぜい犠牲によって成り立つ平和への拒否であって、それは結局「支配される側」に申し訳程度に片足を置いただけのナルシシズム的な本土からの視点に過ぎなかったのです。

いくら支配―被支配の歴史から自らの立ち位置を捉えようとしても「本土」にいるだけでは、自覚しているようで実は「本土」からの視点に過ぎなかったのです。たった一週間ではありますが、現場で沖縄の人々による力強く粘り強い自らの生活と一体の不屈の闘いを身体的なレベルで共有した今回の派遣を通じ、自覚していたようで私に欠落していたものを認識しました。

しかし当然の事ながら私は「本土」の人間であることに変わりはなく沖縄の人々による闘いそのものと一体となる事は不可能です。派遣最終日に訪れたアブチラガマでガイドをしてくれた沖縄の女性は私たちが関東から辺野古に一週間滞在していた事に対し涙を流しながら喜んでくれましたが、あくまでも私は「踏みつけてきた」側の本土の人間として沖縄の闘いに連帯する他に無いのです。

「本土」にいると意識することの少ない私の「本土」の人間としての主体性は沖縄の闘いに於いてどのように在るべきなのかはまだはっきりとわかりません。それはおそらく辺野古での闘いが基地建設阻止に直結すると確信したあの現場に答えがあるように思います。

しかしそれは個人的な問題に過ぎず私がどう考えようとそんな事は二の次であり、答えが見つからなくてもなんら問題はありません。現場では今なお闘いが続いているからです。

これからも沖縄の闘いに連帯するとともに、先ずは私の周りにいる友人、家族に沖縄の闘い、「本土」から警視庁機動隊が沖縄に派遣され暴力的な排除を行っている事、目にした様々なことを伝えたいとそう思っています。

◎感想文(K)

私は辺野古のたたかいの現場へ行く前、そこに対して「怖い」というイメージしか持っていませんでした。それは警察・海保の弾圧ばかりをメディアを通じて見聞きしてきたからです。

しかし、今回現場に滞在して感じたことは、抗議する方々の明るさと力強さです。キャンプシュワブゲート前では、明るく楽しく歌って踊って抗議の意を示し、そして警察がやってくれば毅然と座り込み、対峙する。東京の運動ではなかなか見られない光景でした。

つい私たちは警察や海保の弾圧ばかりを伝えがちになってしまいますが、それと同じくらいに現場の抗議者の明るさと力強さを、辺野古を知らない人々に伝えるべきなのではないでしょうか。それはきっと運動全体に勇気を与えるはずです。

今回は辺野古リレーのご支援のおかげでしっかりと現場を見て参加することができました。そのことに対して辺野古リレーとカンパをしてくださった方々に感謝します。

◎感想文(N)

今回私は生まれて初めて沖縄に行き、辺野古に行き、ここに書ききれないたくさんのものを得ました。

大学で少し勉強してはいたものの、首都圏で生まれ育った私にとって、基地問題は今まで「どこか遠い場所のこと」でした。その闘いを「支援しよう」という気持ちでいました。

しかし、私が沖縄で学んだのは、これは紛れもなく自分自身が引き受けなければならない闘いなのだということです。

基地問題とは沖縄の陵辱です。圧倒的な暴力をもって、そこに生きる人びとの魂を損なうことです。損なわれた土地と海の姿(私が目にすることが出来たのはそのごく一部に過ぎないのですが)は私にただの傍観者であることをゆるしません。

加害者をやめたい。人様の闘いを「支援する」というのではなく、沖縄の闘いを自分自身のものとすること、自分なりの仕方でこの問題に真剣に取り組む方法を見つけること。これが辺野古から戻った後の私の課題です。

◎感想文(K)

辺野古にいる間は、途中から来るメンバーを迎えに何度か辺野古と那覇空港を往復した。片道だいたい70キロ、1時間半から2時間ほどかかる。高速道路を使うため、その料金とガソリン代も当然必要になる。

ゲート前で那覇から通っている方とお話した。毎日ではないが、週に何度か早朝行動に参加しているという。朝は3時に起きて、家族の食事の支度をし、4時に家を出て自らハンドルを握って来ていると言う。

昨年11月18日は座り込み開始から500日目で約1200人がゲート前に結集し、工事車両の進入を止めたことがあった。そのとき現場に居合わせて、「人が集まれば止められる」ことを実感したそうだ。

沖縄戦当時、日本軍は住民を見殺しにし、強制集団死に追い込んだり、虐殺したという事実がある。守るべき立場にありながら、守らなかった。その構図がいまも辺野古の「陸」と「海」で残ったままだ。機動隊と海保による暴力。「70年たっても、いまだに戦争状態だ」とその人は声を震わせながら、私に言った。

辺野古と那覇空港間を数回運転した経験から、改めて生活のなかに基地が存在すること、基地問題が生活を侵食していることを考えた。自分たちの生活を良くしたいなどという次元ではなく、基地をこの世から無くしたい。沖縄が再び「捨て石」になるようなことがないように、今を生きる一人としてその責任を重く受け止めている。

実際に沖縄の地に立って学ぶことができた「思想性」。本土にいてはわからないことである。辺野古で出会った方から、多くを学んだ。

◎感想文(T)

私が初めては辺野古に訪れたのは、ちょうど3年前の2013年である。某右翼団体の襲撃予告に備え、テントの見張りのために座り込み、美しい海を眺めていた時間を昨日のことのように思い出す。

初日の挨拶の後、「来てくれてありがとう」と、現地の人々は私たちを温かく迎えいれてくれた。

初めて座り込みに参加した時、大勢の機動隊が目の前に押し寄せたときは恐怖を覚えた。座り込む人々より圧倒的に多い数の機動隊が、話し合いをする余地もなく、一方的に力づくで人々を排除していく。しかし、隣で一緒にスクラムを組んだ仲間がいてくれたことが心強く、恐怖はしだいに薄れていった。

ただ「辺野古の海を守りたい」という思いで行動する人々の声が、暴力によって押しつぶされる。しかし私が感じたのは、どうしようもない無力感ではなく、希望だった。一人ひとりの力は微力かもしれないが、小さな、しかし強靭な意志を持った力が集まれば、確かに大きな力になるのだ。私たち、工事を止めるためにゲート前に座り込む人々は決して諦めることはないだろう。これからも、辺野古を守るための運動はずっと続いていくだろう。守りたいものを守る強い意志の尊さに触れられたことは、大きな収穫である。

* * *

ジグザグ会より

◎感想文(N)

私は、今回、辺野古リレーの財政的バックアップのおかげで、初めて沖縄の地を訪れることができた。まず、このことに御礼を申しあげたい。

私は、今から30年ほど前の沖縄国体の際(1987年)に、沖縄に行く機会があった。昭和天皇(当時)の沖縄訪問が予定されていることに反対の意志表示をするため東京から送り出される派遣団に参加するはずだったのだ。しかし、その時私が活動していた大学で自治会選挙をめぐる混乱の渦中にいたため、沖縄行きを断念した経験がある。それ以来、沖縄は私にとって「忘れられた棘」のようなものであり続けた。観光旅行で沖縄を訪れるのは、米軍基地を抱える現地の人々の苦しみに知らんふりを決め込む反倫理的な態度であるように思えたため、行ってみようと考えたことさえなかった。そうしていつしか私は沖縄問題を忘却するにまかせた。

今から15年くらい前だろうか。東京の外食産業に沖縄料理ブームが起きたことがあった。沖縄サミットと関係があったのかもしれない。私が住んでいる街にも美味しい沖縄料理屋ができ、しばらく通ったものだった。沖縄の食文化の多様さと質の高さに魅了されたのである。古酒の味を覚えたのもその頃だ。しかしそのときも沖縄の米軍基地撤去の闘争に思いをはせることはなかった。沖縄の文化を消費財として吸収はしたが、政治・社会問題は見事にスルーしていた。なにか「沖縄を忘却する力」が私の意識に強く働いていたと考えるしかない。

しかし、この間の辺野古の基地建設の政治焦点化により、眠り込んでいた私の政治的関心も、やっと沖縄に向けられるようになった。これにはもちろん昨夏の国会前闘争の盛りあがりも影響しているだろう。遅すぎたかもしれないが、本土の人間として一生このまま「知らんふりの暴力」(知念ウシ)のうえに居直ることはやめたい。そう考えるに至り行動するようになったことは、一歩前進だと思いたい。

辺野古で過ごした5日目の最終日に、私は仲間たちと一緒に首里城を駆け足で見学した。そこの土産物売り場で見つけた新城俊昭『教養講座 琉球・沖縄史』を購入して今読み始めている。おそらく小学生高学年くらいの生徒向けに書かれた、カラー図版も豊富な良くできた歴史副読本である。沖縄反基地運動への連帯を続けながら、私自身の沖縄理解を深めていけたらと思っている。

◎感想文(H)

4度の現地行動がありました。初日の火曜日、雨に降られながらの座り込みは現地の人達の果敢さにも関わらず、若い機動隊員に排除されてしまったことは、なんとも悔しいと思いました。そんな中でも現地の壮年の方達の抵抗には、逆に勇気をもらって、「これが辺野古の現場の闘いだ」と実感した次第です。

水曜は集中行動で、首都圏から労組の動員があり400人近く集まったと思います。都内の有志、学生が裏方でいろいろ手伝いをし送迎を手伝えたことは良く、その日はさすがに工事車両の搬入もありませんでした。

木曜日、海上抗議に参加、抗議船に乗り工事現場付近まで近づこうとしましたが、海上保安庁の船がうるさくつきまとってきたのが印象的でした。

抗議が終わり、ゲート前に戻ると昼頃、すでに1回目の搬入があったとのこと。「しまった、悔しい」。そう感じながらも午後に、もう一度、またもや搬入があり、抗議の壮年の方達、学生達も排除されていきます。

都内から来ている機動隊ではなく同じ沖縄の若い機動隊でしょうか、さすがに私も怒鳴るのではなく「こんなこと、本当はやりたくないよね。家に帰って、今日のことよく考えてみてよ」と諭すように話しました。

辺野古の問題は複雑です。容認している現地の人達もいるからです。でも本当は基地の存在などいらないと思っているはずです。彼ら(現地の機動隊員)だって望んでないはず。

辺野古に基地を押し付けようとしているのは政府だけでしょうか。3・11が近くなり福島の原発にも繋がることでしょうが、もう一度私達の生活の現場に引き付けて考えていかなければならないでしょう。

政府の安保法制の問題も辺野古現地と繋がっている、そう再び確信させた辺野古訪問でした。

◎2.28新宿での街頭アピールより(Y)

東京に住んでいて映画でしか見ないようなものを見ました。私たちは、沖縄の人たちを巻き込んでいる。基地がなければ沖縄の経済が成立しないというのは嘘だ。私たちが、安倍政権が、沖縄の人たちを巻き込んでいる現実が、実際にキャンプ・シュワブに行って目に見えた。

府中の第七機動隊の前でも、5分くらい座り込みして、基地建設を遅らせることは可能かもしれない。今新宿で通行している人たちにも、関心を持ってほしい。そういうことを痛感した。

座り込みをしている人たちをどけるという行動を毎日、警察がしている。10分でも警察を遅らせるのは、意味のある行動だ。俺の体重だと、4人がかりで引きずられて追い出される。本土でも、埋め立てようという土砂を運び出す作業を座り込みで遅らせることはできるのかもしれない。

* * *

「すわりこみ日記」のほかにも、好評不定期連載中の「Tさんのすわりこみ日記」はこちらでまとめ読みができます!今年2月の最新報告もございます。こちらもゼヒ!

辺野古リレーは今後も辺野古への派遣をつづけていきます。よろしくお願い申し上げます。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中